震災から100日の、妊娠判定 [凍結胚移植周期]
凍結融解胚移植をして初めて中間判定を通過することができ、移植から2週間を迎えた先日、夫婦で妊娠判定に行ってきました。
実は、中間判定で気がゆるんでしまったのか、膣座薬を入れ忘れてしまう、という日がありました。出勤前に気付いたのでまだましだったのかもしれませんが、かなり動揺してしまい、どうしようと思いながらもクリニックに電話してしまいました。
看護師さんと話をし、入れ忘れ後からはいつもと同じように夜寝る前に入れて、あとはいつも通りに入れてください、と言われました。入れ忘れてしまった分は気にしないでください、とのこと。
その日はしかも、うっかり丈の短いパンツをはいてしまい(節電で会社の中が暑いので…)、開け放たれた窓から冷たい風がぴゅーぴゅー吹き付ける中で仕事をし、芯まで体を冷やしてしまったのでした。
翌日の基礎体温がガクっと下がり、卵からの唯一のサインに感じていた下腹部の張りも感じられなくなって、それはとても落ち込んでしまったのでした。
そんなことがあって、前回の記事に頂いたコメントを読んだらマジで涙でてきちゃって、勇気づけられたのでした。ありがとうございます…。
気にしすぎないこと、と言われていたのに、こんな風に相変わらず一喜一憂の生活をしていました。悪夢を何回か見た後に思ったのです、私は自分ではどうすることもできないことでまた悩んでいる、って。私の手の届かないところで起こっていることなのに。生命の始まりと終わりは神秘の領域のことだって、心身にしみて理解したんじゃなかったのか??
そう思ってから諦めのような気持ちになって、少し落ち着いて判定の日を迎えました。
6/18(土) D33 (ET14)
夫婦そろって来院し、先に採血。ビルの下にあるフレッシュネスで1時間くらい時間を潰していました。なんかダメな気がする、と思っていて、ダメだった場合に行く予定にしていた旅行の計画の話などをしてやり過ごしていました。
再びクリニックの待合室に行き、しばらく待って名前が呼ばれ、旦那さんと一緒に診察室に入りました。二人一緒に診察を受けるのは男性不妊の診察の時以来です。
先生が説明を始めた時に私はまたもや「やっぱりダメかも」と思ったのですが、告げられた数値はなんと、hCG:1317.9。 え~~~、というか、もう、ぶったまげ~~、と思ってしまいました。多い人は千の数字になるとは聞いていたけど、まさか自分がそれくらい出るとは思ってもみませんでした。
ちなみにP4は29.64。これもOKでしょう、とのこと。
結果を聞いたらものすごい動悸に襲われて、胸がどっきんどっきんして止まらなくなってしまいました。結果を待っている間はそんなことなかったのに、なんで結果を知ってからドキドキすんねん?
いつまでが通院になるのか聞いてみると、現在は妊娠4週に入っていて、次週に胎嚢の確認(子宮内に妊娠してるか)をするのだそうです。胎嚢が確認できたらすぐに分娩の予約を入れるように言われました。胎盤が完成する妊娠12週くらいまでは黄体補充をする必要があるので、12週までは2か所で診察を受ける形になる、とのこと…。
妊娠4週? 分娩予約?? (゜▽ ゜)~゜ぽけぇぇ~、という感じで、聞いていても全く実感がわかない…。だって、これといった体からのサインがないんだもの。
服用していたプラノバールはその日からもう服薬しなくてもいい、ということでしたが、膣座薬はまだしばらく続けることになりました。
旦那さんが、先生に質問をし始め、私が基礎体温で一喜一憂して困る、みたいなことを言ったのです。そんなこと言わなくたっていいじゃんよー、と思ったのですが、もう着床はしているので、基礎体温がストレスになるようだったら測らなくてもいいですよ、と言われました。(→でも、流産のサインになるかもしれないので、今でも測ってます…)
また、出血がずっと続いている件も、膣座薬を使用しているし、今は経過をみるしかない、と言われました。下腹部の張りと出血があるのは流産の兆候、みたいなのをネットで見ていたので、ちょっと不安に思っていたのです…。
ということで、この日の診察は終了。
妊娠判定で良い結果が出る、というのはずっと夢見ていたことのはずなのに、なんだかあっさり……。勝手な想像で、ぱんぱかぱ~ん、と、くす玉が割れるくらいの勢いで「オメデトウございま~す」とか言われちゃって、私も号泣するのかなー、などと思っていたのですが、フツーに数値を言われただけです…。「陽性」という言葉も出てこなかった。
多分、翌週の胎嚢確認が済まないことには妊娠と認められないからだと思います。卵が旦那さんの血をきちんとひいてくれたなら、正しく子宮内膜に着床してくれていると思うのですが、方向音痴の私の血を濃い~くひいてしまったなら、見当違いなところで落ち着いちゃっていそうな気がするのです(‐_‐;)。
卵管とか子宮頸管など子宮とつながっているところに着床してしまうのは分かるのですが、腹腔で着床してしまう卵さんもいるらしく、子宮外妊娠って本当に不思議だなー、と思います…。うちの卵はそうでなければいいのですが。。。
ちなみに、今現在も妊娠の兆候的なものはないです…。乳首痛もない、足の付け根のチクチクもない、風邪をひいたときのような具合の悪さもない。
下腹部の張りは最近薄らいできて、ちょっと重く感じる程度になっています。
水っぽいおりものは相変わらずバンバンでていて、おりものシートでは間に合わない時もあります。でも、これは多分膣座薬を使っているせいかもしれません。そう思うと、妊娠初期の症状と言えるものがほとんどありません…。順調にいけば、私も近いうちに「つわり」とやらに襲われる日が来るはずなんですが、とてもそんな日が来るとは思えない状態です…。
妊娠判定の日は、震災から100日が経った日でした。百か日の法要をした被災地も多く、身元不明の遺骨の中で家族を捜す人たちや、行方が分からない子どもを探している親御さん達の姿もニュースで流れていました。その映像を見て、叔父が亡くなったのは悲しかったけれど、叔父だと分かる形で遺体が瓦礫から発見されて、さようならの区切りを持つことができたのは恵まれたことである、と痛感して涙が出ました。
今までの人生で一度も妊娠にかすりもしたことのないこの私が妊娠できたのも、何かの縁を感じずにいられません。もしかしたら震災で亡くなった多くの命の一つが、生まれ変わりでもう一度世に来るために私のお腹に宿ってくれたような、そんな気がしてならないのです。
この子を大事に大事にしていくことで、被災地の人たちと共にいたい、と思っています。
そして、亡くなった方々(叔父を含む)の魂が安らかであること、行方不明の方が一人でも多く家族のもとに戻れること、一日も早く復興が進むことを、いつも祈っています。
兆候のない日々を過ごすのは結構不安です。一気に安定期に入りたいものだー、と思ったりするのですが、どうなるか分からない不安定な時期を過ごすのも、きっと意味があることなのかもしれない、と思うようにしています。一日一日を乗り越えて、大事にしていって、出産できる日を迎えられるように頑張りたいと思います…☆
中間判定の壁を、初乗り越え☆ [凍結胚移植周期]
6/10に中間判定がありまして、今回初めて着床を確認できるhCGホルモンを検出できました
移植が無事に終わって中間判定までの間、妊娠の兆候的なものはほとんどありませんでした。強いて言えば下腹部に少し張りがあるくらいだったのですが、気のせいと思えばそれで済んでしまうくらいのものです。体温の上がりもイマイチで、着床してくれているのか気が気でない日々を過ごしていました。
さらに、移植の時に、悲しかったら悲しんでいいのだ、と思ってから、ふっつりと糸が切れたようになってしまって、沈んだ気分から抜け出せなくなっていました。感情をコントロールするのって本当に難しい…。私の根本はやはりヘタレなのだな、と痛感した次第です。
早朝覚醒や腹痛を始め、身体症状も様々出ていたので、気持ちを穏やかにするために処方されていた漢方薬を飲めないものだろうか、と思っていました。抑肝散加陳皮半夏(よくかんさんかちんぴはんげ)という薬です。移植前に体調が絶不調になった時、この薬をお湯に溶かして食前に飲むようにしたら、少し楽になった気がしたのです(胃が痛むので、普段漢方薬は食後に服用していました)。
移植の時、特に聞かれず、また私も質問しなかったので、服用している漢方薬を継続していいかどうか確認できていませんでした。念のため、自主的に服用をやめていたのです。
さらに、今回は移植後の出血が全くなかったのに、中間判定の前日(ET5)に鮮血の出血が少量ありました。なぜ今出血、と焦ってしまって、クリニックに電話。
看護師さんとお話ができ、出血はおそらく膣座薬を使用しているせいでしょう、と言われました。ただれてしまうこともあるので、少量の出血なら気にしなくていいです、とのこと。生理のような大量の出血になったらすぐにご連絡ください、と言われました。
漢方薬のことも一緒に聞いてみたのですが、催奇性の部分で確証がなく、妊婦さんへの投与を控える薬になっている、ということでした。翌日の中間判定まで出来れば我慢してください、と言われ、もし辛い場合は1日1包くらいにとどめておく、ということになりました。
体調も悪く、不安や緊張・ストレスでいっぱい…。卵にとっては最悪の環境だろうなー、とすまなく思いつつ、どうにも改善できないまま中間判定の日を迎えました。
6/10(金) D25 (ET6)
中間判定のこの日は1日中緊張を抑えることができませんでした。きっと、私は自分が思うような結果にならないことを恐れているんだなー、と感じました。複雑に動いている命のことを、私が支配してコントロールしようとしてるんだなー、って思ったのです。そんなことできっこないのに。
どちらの結果になっても、受け入れよう、と決めてクリニックへ足を運びました。
最初に採血。なぜか針を刺されたところが痛んで、1時間後の診察予定時間になっても痛いままでした。しびれがなければ、おそらく内出血しているせいだと思う、と看護師さんに言われ、冷やすと皮膚が黒くなるのを防げるから、と保冷剤を頂きました。
腕を冷やしつつ、待つことしばし…。私の名前が呼ばれて診察室へ。
「着床するとhCGというホルモンが分泌されるんですがー…」、という先生の言葉を聞いて、「あ、これはダメだったに違いない」と思ってしまい、先生の顔を直視できずに話を聞いていました。
なので、「hCGが、28でています」と言われた時には我が耳を疑ってしまった。
え?? うそ??! という感じです。
だって、乳首痛もなければ、体調の変化や兆候みたいなものもほとんどなかったのに……。ほんの僅かな下腹部の張りだけが信じられる材料でした。それも気のせいかもしれない、と思っていたので、ほぼダメだろうと思っていたのに…。
受付でもらった「データ記入一覧表」にホルモンの値を記入しようと思って、先生にホルモン値をもう一度聞こうとしたら、余りに気が動転していて、「FSHの値をもう一度教えてください」と口走ってしまいました。FSHの値を今聞いてどーすんねん。。。\(--;)hCGでしょっ
ということで、血液検査の結果は
hCG:28.6
P4:25.6
E2:41.7
P4は膣座薬を入れているので底上げされているけれど、必要な分(P4>10)は出ているだろう、ということです。
E2 もプラノバールを服用しているので、補充できているはず、とのこと。
中間判定時に必要なhCGは10以上で、それくらい出ていれば着床はしていると判断していいそうです なんと、卵は着床してくれていた
でも先生は表情を変えず、次回の妊娠判定までは分からない、とおっしゃいました。今は二桁だけれど、妊娠判定時には数百とか、多い人で千の単位のhCGになるのだそうです。あと一週間で10倍以上のhCGがでてないといけない。中間判定で必要なhCGが出ても、妊娠判定でダメだった、という例は結構多いのかな…、と感じました。
妊娠判定までに気をつけなければいけないことはありますか?、と聞いてみたところ、「気にしすぎないことです」と、きっぱり言われました。黄体補充など必要なことはきっちりしつつ、普段通りの生活をしてください、とのこと…。おっしゃる通りでございます…m(_ _)m。
診察の後、追加の膣座薬を頂いて、お会計をして終了。こんな晴々しい気持ちで中間判定を終えられるなんて夢みたいでした。
初めて妊娠の可能性を現実的に感じられるようになったので、色々先走ってしまい、検索魔になっていました。
出産予定日はいつになるんだ?とか(ちなみに来年の2月中頃でした)、胎嚢や心拍の確認っていつになるんだ?とか。(気にしすぎるなって言われたばかりなのにね~。。。)
胎嚢や心拍確認のHPやブログをみていると、なぜか流産に関するものばかりにぶち当たってしまい、それらを黙々と読んでいるうちに、中間判定でhCGが出た、というのはほんの序の口に過ぎない、ということが嫌というほど分かりました。少なくとも妊娠7~8週の心拍確認の時期までは気が抜けない日々が続くようです……。
でも、卵が着床してくれたのは本当に嬉しかった…。おいらがこんな状態にも関わらず、頑張ってくれたんだな~、と思ったら、ちょっとうるうるしてしまった(/_;)。子宮が極端な後屈でも着床はしてくれる、ということも分かった。
卵が頑張ってくれたから私も頑張ろう、って思うし、逆に私も頑張るから卵も頑張ってね、と思う。このまま二人?で頑張って、出産までの月日を過ごせていけたらいいのにな~……。
ちなみに、その後も世間でよく言われているような妊娠の兆候はないです。
下腹部の張りと、水っぽい(というかほぼ水)おりものが出るくらい。本当に、人それぞれなんだな~、と思います。なお、中間判定の前日から少量の出血はずっと続いています…。
妊娠判定までの日々を心穏やかに過ごしたい。そして一日一日を大事にしたい。どちらの結果になったとしても、判定前の日々には二度と戻れないのだから…。
できることなら、このままお腹の中でこの子を育てて、無事に出産して、早く抱っきしてあげたいのです…。
3回目の移植、無事終了。 [凍結胚移植周期]
6/4(土)、無事に凍結融解胚を移植してきました
今はお腹の中に卵がいてくれているはずです(^^)。
6/4(土) D19
体調不良が続いていましたが、移植日までにはなんとか普通に食事がとれるようになっていました。
12:00
クリニックへTEL。培養室直通の電話だったのでびっくりしてしまいました。
卵は無事に融解し、移植できる状態になっている、とのこと。予定通り午後14時30分に移植です。
14:15
土曜日ということで、旦那さんも休みだったので二人で一緒にキネマへ行きました。移植予定時間の15分前に来院。
私は子宮後屈なので、ぱんぱんにおしっこをためる必要はないのですが、膀胱の位置を確認するために、やはりおしっこをためておかなければなりません。尿意を我慢する、というのが苦手でして…。追い込みで水をがぶがぶ飲んだのもよくなかったのかもしれません。受付してから我慢できずに何度かトイレに行ってしまいました。
14:40
先に採血をして血液検査&黄体補充の注射(hcg)をします。
久しぶりの筋肉注射だったけど、全然痛く感じなかった。
お尻に注射を打ってもらった時に、看護師さんに「痩せましたか?」と聞かれました。「サイズが違いますよね~」ということなんですが…。サイズというのはお尻のサイズってことですよね~。えぇ、まぁ、確かに3、4キロ痩せてしまったのですが、下半身デブなのでお尻のサイズの変化は分かりやすかったのかもしれません。。。(‐_‐;) さすが看護師さんというか、分かる人には分かるんだなー、と思いました。
その後、支度をする回復室へ案内されました。
手術室や回復室、採精室(2部屋になってました)などは一般の診察スペースと隔てられた作りになっています。新しくきれいな回復室には、安楽椅子や簡易ベッドではなく、普通のベッドが コート類も入れられるロッカーやインターフォンもついていました。
スカートの下の下着をとって、ケープとキャップをかぶり、身支度を整えます。
尿意が辛くなっていて、看護師さんにトイレに行ってもいいか尋ねると、次にご案内するので我慢してください、と言われてしまいました。
14:45
すぐに私の番となって、手術室へ。ちょっと薄暗くて、台やモニタがある感じは前と変わりありませんでした。台の上に横になると尿意も緊張もMAXに。尿を抜いてもらえないか頼んだのですが、子宮の様子を確認するからちょっと我慢してください、と言われました…。
院長先生が準備にかかり、器具が入ったのですが、なんか、痛い…。「今日はちょっとがつがつ当たっちゃうみたい」と言われ、どうやら難航しそうな気配を感じました。今度こそ、トワコウかもしれない…、と覚悟を決めていました。
一度尿を抜きましょう、ということで、半分くらい抜いてもらいました。
少し楽になって、台の上で処置を待っている間、「ガマンしなくていいから」って叔父の声が聞こえた気がしました(気がしただけですからねー)。悲しかったら悲しめばいいし、痛かったら痛がっていいんだからサ、って。
悲しかったら…、と思ったら気分が沈んで、少し気持ちが落ち着いたような気がしました。
ガイドを使いますねー、と声をかけられ、処置が始まりました。
なるべく意識を移植に集中させないように、心でお祈りをとなえて、深く呼吸をするように努めていました。特に吐く方を長く。呼吸に意識を集中させて。
時々違和感があって腰が浮いちゃう時もあったけど、いつの間にか移植は終わっていました。信じられなくてきょとんとしていたら、そばにいた培養士さんに「終わりです」と声をかけられました。
なんと、ほとんど痛みを感じることなく移植が終了しました 信じられない~。
15:00
台の上から降りて車いすに乗せられ、回復室へ移動しました。もう嬉しくってたまらない。院長先生、ありがとう、という感じです。
15分はベッドで安静にして、その後トイレで用を足してください、と言われました。
移植の所要時間15分は私の中では相当短い時間なのですが、私の後に移植を受けた方々は、大体5分おきくらいに入れ替わり立ち替わりしていました。移植って普通こんなに短い時間で済むものなんだ…、と思った次第です。
ベッドで安静にしている間、じわじわじわーっと涙が溢れていました。こんなにつつがなく移植を終えられるなんて思いもしなかった。
今お腹に卵がいる。幸福感に包まれてベッドでまどろんでいました。
休んでいる間、培養士さんと看護師さんがみえて、今回の移植のレポートの説明と、黄体補充の案内をしてくれました。レポートには卵の写真が。ゆがんだ丸にポコっとしたでっぱりがあって、孵化が始まっている状態です、と教えてもらいました。
黄体補充は、通常であれば移植後から服用しているプラノバールを継続するだけ、なのだそうです。でも、私はどんなに万全の態勢を取っても、黄体ホルモンがなくなってしまう人なので、何か工夫をしたい旨を伝えました。安静の後、診察を受けて先生と相談、ということで決定。
判定日のスケジュールも回復室で行いました。
6/10(金)D25→中間判定
6/18(土)D33→妊娠判定 (移植2週間後)
中間判定って、こんなすぐにやるんだっけ~、と思ってしまいました。
最後に「またご連絡します」みたいなことを確か言われた気がしたし、周りの方はインターフォンが鳴ってからベッドを出ているようだったので、ずーっとベッドの上で休んでいました。でも、もういい加減誰もいない気配になり、看護師さんの出入りもなくなったので、不安になってインターフォンで聞いてみたら、「もう安静は終わってますので、待合室でお待ちください」と言われてしまいました…。新しいクリニックでの要領がよくわかっておりません。。。
16:00
旦那さんは待合室でずっと待っていてくれました。一応、メールで報告はしていましたけど…。
待合室でも小一時間くらい待って診察室へ呼ばれました。
黄体補充の方法は色々あるけれど(服薬、注射、膣座薬)、強力に取り組みたいなら膣座薬(プロゲステロン膣座薬)がいいと思う、と言われ、膣座薬を処方してもらうことにしました。
渡されたレポートに間違いがあったので訂正してもらった後、膣座薬の説明を看護師さんから受けました。冷蔵庫に入れないと溶ける、ということを忘れていたので、説明して頂いて良かったです…。
なんにせよ、治療が久しぶりなので、忘れていることが多いんですよね。。。(^^;
帰宅して、旦那さんと疑似「川の字」をしてみたり、パパだママだと呼び合ってみたり、卵が来てくれた喜びを2人でかみしめておりました(すでにバカ親?)。
現在、移植後3日が経つわけなのですが、これといった症状やサインのようなものは全くない状態です……。移植後の夜、暑くて布団を蹴っ飛ばして寝てしまい、少し体を冷やしてしまいました。体温も前日比-0.4℃くらい急激に下がり…。なんでこうも私はアンポンタンなんだ、としくしく泣いてしまったのですが、ネットで検索すると、ホルモン補充周期で移植の場合、体温は余り気にしなくていい、というようなことが出てきたので、気にしないようにしました…。
あとは、ほぼ普段通りの生活をし、できるだけ急がずゆっくり行動するようにしています。
特に避けていることはないのですが、やらなければよかった、と後悔するようなことはしないようにしています。鍼灸や漢方、時々行っていたマッサージ、自転車に乗ること、走ること、などなど。予定もあれこれ入れないようにしています。
それと、寝ている間ずぇったいにお腹を冷やさないように腹巻でガードするようにしています…。
前回の移植の時には、移植後3日目で乳首痛があったのですが、今回は見事なくらい何もないので不安です…。でも、極力「ダメだったのかも」という考えは持たないように努力しています。中間判定前の今の期間だからこそ、卵はお腹の中にいてくれている、という思い込みを持つことが出来るし、この子を育てたい、という希望を持つことができるからです…。
中間判定、一度でいいからいい結果を聞いてみたいなぁ……。
治療再開。 [凍結胚移植周期]
いつの間にか梅雨真っ盛りになりました(+_+)。気持ちのいい季節が短く感じられる今日この頃です…。
5月に治療を再開しました。昨年10月下旬から不妊治療をお休みしていたので、大体半年ぶりになります。休みを決めた時には、まさかこんなに長くなるとは思いもしなかったんですが……。
5月は下旬に趣味の音楽のほうでイベント&練習があり、録音図書作成奉仕者の養成講座も再開して(宿題がたんまりでるので~)、ブログのほうになかなか時間を割けずにいました。できるだけ手短に記録したいと思います(できるのか?、私に。「手短」ということが)。
生理が始まって新しい周期の3日目に、久しぶりにキネマに予約を入れました。キネマが新しいビルへ移転してから初めての通院になります。
5/19(木) D3
ピカピカの真っ白なビルの3階がキネマでした。4階から上は東急ホテル(京急EXインでした。ごめんなさい)で、1階にはフレッシュネスバーガーや定食屋さんが入っています。
慣れない空間に右往左往、キョロキョロ(きょどきょど?挙動挙動…不審)しながら、最初に採血。新しいビルにはラウンジがなくなったため(残念)、1時間外出するか待合室で待つか聞かれました。外出して、蒲田のグランデュオを物色した後、再びクリニックへ。
検査の結果は、
FSH:12.0
LH:4.1
E2:47.3
数値をメモろうとしたら、プリントアウトして渡してもらいました。
休み期間を経て、気持ちは大分安定し、メンタルの薬も服用していないというのに、FSHは相変わらず二桁……。もーね、私は元々FSHが高い人なんだなー、って思いましたっ。
エコーで卵巣の確認もしました。久しぶりに見る画像。特に腫れてる様子はないとのこと。
FSHは高めだけれど、この程度のホルモンバランスであれば、自然の周期で移植もできます、と言われたのですが、薬を服用して移植日をコントロールする方法でお願いしました。なんといっても、黄体機能不全気味なので…。
方針が決まってスケジューリング。
5/31(火) D15→内膜の厚みを確認
6/4(土) D19→移植
内膜が薄かった場合は延期、とのこと…。
診察が終わって、看護師さんから使用するホルモン剤の説明を受けました。
エストラーナという貼り薬です。皮膚を通してエストラジオール(E2)を吸収させます。
D3から貼り始めて1日おきに交換、枚数を1~3枚へ徐々に増やしていきます。
風呂上りの清潔な肌に、水分を十分ふき取ってから貼る、はがれてきたらテープ等で押さえる、かぶれやすくなるので注意する、といった説明を受けました。
貼る場所はへそから下の下腹部で、貼り替えるたびに少しずつ位置をずらすとかぶれにくい、とのことでした。ちなみに添付の説明書ではお尻でも可となっているのですが、はがれた場合気付きにくいので下腹部にしてください、と指示されました。
湯船に入ってもOKということでしたが、やっぱりはがれやすくなるんですよね…。特にお腹のしわに沿って…。はがれちゃう時は上から絆創膏を貼っていました。
位置を少しずつずらす、と言われても、枚数が3枚になるとなかなかずらせない…。貼り始めは大丈夫だったけど、後半は結構皮膚がかぶれてしまいました(>_<)。
内膜確認の日までエストラーナを貼って過ごしていましたが、実は体調がすこぶる悪くなりました。胃がむかむかしてきて、食事をするのも苦痛、気持ち悪く感じる時もありました。副作用なんじゃないかと思い、よっぽどクリニックに電話をしようかと思ったのですが、どうもメンタルからきている気がすると思って様子を見ていました。
実は、診察のあった日、エコーの検査をした時に、子宮の通り道を確認したい、と言われ、移植の時と同じように器具が入ったのです。
ちょっと痛いかな~…、と思っていたらやっぱり結構痛くて、「痛いです」と思わず声を荒げてしまった…。
痛くて辛ーい思いをした初移植後の子宮がん検査では、同じように痛くて思わず泣いてしまったことがあったのだけど、今回は痛くても涙は出なかった。気持ちの上では全然大丈夫なつもりだったんだけど…。体調の変化が起きたことで、「痛い思いをしたことをおいらは忘れちゃいませんぜっ」、って体から言われているような気がしました…。
※過去の記事をいちおーリンクしておきます… → 「初移植の、長い一日」:2010年5月
→ 「ステップダウンと子宮がん検査」:2010年7月
色々乗り越えられたつもりでも、結局お休み前となんも変わってない、と思いますた。。。
5/31 (火) D15
移植へのセカンドステップ、内膜の確認の日が来ました。
診察前の何日間かは、エストラーナのせいなのか排卵は起きないはずなのにノビオリさんが盛んに出ておりました。
内診室で確認してみると、なんと、内膜は14㎜以上ありました 見た目もぽってりしている感じ。三層に分かれていて、形もいいです、と言われました。14㎜なんて内膜、初めてです。今までは10㎜超えれば御の字だったのですが。エストラーナのパワーなんでしょうか。
内膜は問題ない、ということで、予定通りD19に移植をすることになりました。
排卵後の状態にするためにこの日から薬が変わりました。P4とE2を含むプラノバールを服用します。
私はこの薬を服用すると翌周期のFSHが急上昇してしまうため、いつもプレマリン+デュファストンの組み合わせでお願いしていました。なので、診察が終わった後、看護師さんから本当にプラノバールでいいのか念押しがありました。
もし移植がうまくいけば次の周期の心配はいらないし、残念な結果だったとしても次の周期まで何周期かあけたいと思っていたので、プラノバールでも問題ないと思った、と説明しました。それになんといっても、薬の単価が全然違ったので…(プラノバール@¥50、エストラーナ@¥160)。
でも、やっぱりエストラーナ+デュファストンにすべきだったと思っています…。ケチってる場合じゃないんです。ぬかりなくいかなきゃいけないのに、気を抜いてしまいました。多分、エストラーナの方が強力なのではないかと思っています。移植後の黄体補充では相談しながら最善の方法を選びたいと思っています……。
そんなこんなで、移植を数日後に控えていますが、実は体調がものすごく悪いです。
今週に入ってから、下痢がひどく、口の中が苦くなったり、食事がほとんど食べられなくなっていました。腹痛もひどくて…。
なんでなのかなー、と思うに、やっぱりメンタルなのです…。
震災後にお会いした方からお見舞いやお悔やみの言葉を多く頂いたことがあって、それが「がんばろうね!」という内容ではなく、あんなひどいことになって…、みたいな言葉を頂くことが多くて、今になって震災のことを思い出しているようなのです。
それに加えて、移植に向けての不安と緊張を強く抱えているようです。
どちらも気持ちの上ではそんなことないんですが…。
揺り戻しのようになっています。もしかして、私は少し無理をしているのかもしれません。でも、今は前を向いていないと、心がずっと折れっぱなしになってしまうと思うのです…。
移植前だというのにろくなものを食べていません。ほぼ毎日うどんかお粥…。自分の状態と、卵の状態が気になります。なんといっても、スローペーサー卵さんでしたから…。
移植日当日は昼の12時にクリニックに電話して卵が無事融解したかを確認、午後移植、という予定になっています。凍結時に縮こまっていた卵は融解するとふっくらとした形に戻るのだそうです。無事ふっくらさんになってくれるといいな~…。
卵どのぉ~~、お布団の準備はしかと整っておりますぞ~っ m(_ _)m
不安も大きいけれど、お腹の中に卵が来てくれるのが楽しみでもあるのです…。
今を大切に…。卵が来てくれるまでの日を大切にしたいと思っています…。
全然手短じゃなかった…。すみません。
お休み期間のもろもろ【少しずつ上がってく編】 [お休み周期]
3月10日に「【下がってく編】」の記事をアップして、少しずつ上がっていけるようになった経緯を書く予定でいたのですが、記事をアップした翌日に大震災が起き、結局また下がってしまったので、なかなか【少しずつ上がってく編】を書けずにいました。
これまで良かったり悪かったりを繰り返しながら心の整理をつけてきて、ずっと良い状態でいる、ということはありませんでした。震災で下がって、でもまた「上がっていける」という気持ちを持てるようになったので、気持ちの整理をつけていく中で気付いたことなどを記録したいと思っています。ただ、心はとても複雑で、何か一つのことに思い至ったからすっきり解決した、ということはありません。しかも現在進行中で、私はまだ自分の心についていろいろ彷徨っている最中でもあります。
以下、非常に長文ですが、お時間がありましたら、ご覧いただけますと幸いでございます。。。
最初に学んだことは、メンタルの調子が悪い時がきても、じっと耐えることができる、ということでした。良かったり悪かったりを繰り返す中で、「もういい加減疲れちゃったな~」、と思う日々がありました。旦那さんが出張でいない時に「悪い時期」がやってきた時があって、どうしよう、と思いつつも、嵐が過ぎ去るのをじっと待つような気持ちで、ひたすら耐えていたことがありました。何日かすると確かに嵐は去っていって、いつも通りの生活を送ることができていました。辛い状態は永遠に続くわけじゃない、という確信と、乗り越えられるという自信を得たような気がしました。
10・11月の出来事の後、兄の死を見つめる作業をしていました。正確には、兄の死にかかわる一連の出来事と、自分と家族・周りの人たちとの関わり、自分自身の気持ちの変化について見つめていたのだと思います。
精神科の先生から、余裕があったら読んでほしい、と言われていた本がありました。訳者自身がグリーフ(死別などの悲嘆)ケアのカウンセラーで、中身もしっかりしている本だから、という理由です。
この本を読んで目から鱗に思ったのは、「喪失」は死別だけを指すのではないということ。失恋や離婚、転居、失業、転職など、自分のアイデンティティーの一部が欠落することをすべて「喪失」として取り上げていました。
私は小さい頃から、父の仕事の都合で転居・転校が多かったのですが、それぞれの別離についてちゃんと向き合うことをしてこなかったように思います。小さな痛みも放っておかず、向き合うことが大事なのだ、と実感しました。
また、この本で気付いたのは、グリーフから立ち直る過程は能動的なものである、ということです。喪失を体験した後、自分のアイデンティティーや人生の「ナラティブ(物語)」を書き換える必要があるということ。喪失をきっかけに、自分自身を変化させていこう、という、アメリカ的なポジティブさを感じました。
その「意味再構築」の過程のために様々なイベントが紹介されているのですが、私も何かやらなきゃダメ??と思わせられる部分があったので、他の同類の本を読んでみました。
これは著者自身がトラウマを伴う死別を体験していて、しかもカウンセラーでもある、という本です。悲しみにはいくつかのフェーズ(段階)があって、その時々の悲しみと向き合い、段階を経ていくことで、悲しみは乗り越えられる、という内容です。
悲しみの「第三段階」としての「ひきこもり」と、10章に書かれている「家族全体の悲しみ」について、特に共感する部分が多かったです。訳もなく沸き起こってくる怒りの感情や暴力性について、「あなたは頭がおかしくなったわけではないのです」と繰り返し書いてあって、思わず涙がこぼれそうになりました。精神科の先生が「病気ではないのかもしれない」と言っていたのが思い出されました。
この本を読んで得た気持ちはたくさんあるのですが、主なものを以下に挙げておきます。
・過去でも未来でもなく、今を大切にする
・意図しないで訪れる出来事を感謝して受け入れる
・自分の人生をコントロールしようとしない
・自分と身の回りのことに愛情を注ぐ
自分を大切にしようという気持ちと、生きている世界に安心して身を委ねる気持ちを持てるようになりたい、と思ったのです。
また、最終章には悲しみを繰り返して生きていくことの意義、のようなことも書かれてあって、深く心に残りました。
この本も先の本と同様、アイデンティティーを変化させることで悲しみを乗り越えることが大事だと説いています。子を失った親、夫をなくした妻、など、紹介例はあるのですが、兄をなくした妹(しかも自死で)というのは一例もなかった。世間での立場が変わる、というあからさまなものではないけど、やっぱり私には私なりのアイデンティティーの変化が必要だったのだ、と悟りました。多分、私は元々他人に対する依存性が強くて、自我境界の薄い子だったんだろう、と思います。私に強い影響を与えていた兄がいなくなって、私は自分の弱い部分を克服する必要があったのだと思います。でもそのことに目を向けずに今まで生きてきてしまったのでした。
「悲しみを乗り越える」というのは、悲しい気持ちが薄らぐことで、それは一生無理なことだと思っていた。でもそうではなくて、悲しみを通して自分を変化させることなんだ、ってやっと理解することができました… (頭悪いよ、本当に…)。
この本は最初図書館で借りて読んでいたのですが、最終的に購入しました。今後大きな悲しみがやってきた時に、立ち直ることができるフェーズがあることを忘れないよう、手元に置いておきたかったからです。お守りのようなものですね…。
2つの本に共通して、故人のことや自分の感情を誰かに積極的に話すことが大事、と書かれていました。それが必要だ、ということは私自身もずっと前から思っていました。でも、兄と兄の死のことはこれまで極力他人に話さないようにしなくてはならないことでした。家族の中でさえ兄の話をすることは殆どなくて、父の前ではいまだにタブーですらあって、兄のことや自分の感情を話すことで、家族の感情を今さらほじくり返すことはナンセンスだと思ってたのです。
(でも、でも、そうやってまるで兄の存在自体がなかったかのように、私自身や家族がふるまっているのを、私はずっと耐えられないでいたんだ。。。!!)
誰かに話して、悲しい気持ちを2010年に置いてしまいたい、と思いました。相手は夫婦喧嘩を繰り返していた旦那さんしかいなかった。当時私はまだ荒れている時期で、二人の生活のことやコミュニケーションのことで大ゲンカをしたばかりでした。兄のことと何の関係もない旦那さんを巻き添えにして、不快な思いをさせることに抵抗があったけど、大晦日の晩にお願いしました。何のコメントもアドバイスもいらないから、ただ話を聞いてほしい、と。旦那さんは抵抗やプレッシャーを感じつつも受け入れてくれました。そして同じ涙を流して私の話を聞いてくれた…。
私はただヒストリーを話しているつもりだったけど、今現在はどうなのか、ということを話す段になって、自分の考えを整理することができたように思います。旦那さんと共通した意見は、私は自分をゆるす必要がある、ということでした。
具体的に自分をゆるす過程は瞑想チックなことをするようになってから始まったと思います。
瞑想チックなことを始めたきっかけはこの本でした。 30も半ばを過ぎて、自分が未熟であるという意識を持っている人が他にも(しかもアメリカ人で)いた、というのが意外だったのです。色々と自分と共通点の多い主人公(=著者)の魂が成長していく過程を辿る中で、著者が実践していた瞑想が私にとっても必要なものなのではないか、と思えたのです。
誰かに教わったわけではないので、超自己流ですが、ただ胡坐で座って、なんとなく手を膝の上に置いて、深く呼吸をするようにしています。目を閉じて、自分の心の状態を確認しています。始めた頃は私の中にいる「子供の私」に呼びかけるようにしていました。悪さを働くのはそいつだろう、と常々思っていたからです。一緒に生きていこう、と呼びかけると頭の中がぐるぐると回転するのを感じました。
また、瞑想的なことををしているうちに、私の細胞の一つ一つを満たすように、「私を責めている私」が存在することにも気付きました。「潜在意識」というものなのかもしれません。そいつは母の姿で夢に現れてくることも分かりました。両親と仲違していた頃には、ストレートに「謝れ!」と夢で私に言ってきました。兄が死んで7カ月後くらいに通夜の晩の夢を見た時には、「T(兄の名)でなくて、おめぇが死ねばよかったのに」と言っていた。私は長年、それが母の本心なのだろうと思っていたけど、そうではなくて、「お兄ちゃんが死んで、なんでお前が生きてるんだ?」って、私が私を責めていたのだ。
そのことに気付いた後で、また母の夢を見た。お前は私のことを責めているのか、とそいつは言った。私は誰のことも責めたくない、と答えた。特に私のことはもう責めたくないんだ、と言って、その夢はそこで終わっていた。
「私を責めている私」の存在に気付いた後も感情の上下はありました。『食べて、祈って…』の本の中にヒントがあったのですが、消し去られることを恐れる自我が悪さをするのだ、ということにも気づきました。だから、瞑想をする時に、無意識の私も、子供の私も、全部が私の一部で、どの私も大切なのだ、と言い聞かせるようになりました。愛しているから、決して排除しようとしたりしないから、受け入れているから、……という感じです。
「自分をゆるす」という意味が分かりかけてきて、なんとなく体調も良くなってきたかなー、と思っていた頃に大震災が起きました。岩手の内陸にある実家は携帯のメールで震災の日に無事が確認できたけど、沿岸に住んでいる親戚や友人の安否はすぐには分からなかった。最終的に、宮古市にある母の実家で一人暮らしをしていた叔父が遺体で発見されました。馴染みのある町が跡形もなくなっている様子、津波で流された母の実家、そして叔父の死、と、まるで夢でも見ているんじゃないか、と思うような、信じられない感情に押し潰されそうになっていました。
叔父の遺体が見つかった、という連絡が私にだけ知らされなかった、ということもありました。両親(というか母親)の心情と、色々偶然が重なったことに因るのですが、それは兄が精神病棟に入院したことが故意に私にだけ知らされず、兄本人が病院からかけてきた電話で事態を知った、という出来事を思い出させました。あの時のショックと、憤り、不信感などが甦ってきて、この人たちはまた私に同じことをするのか、と思い、それはとても暴れてしまったのです…。
自分でもどうしてそんなに暴れてしまうのか分からなくて、気持ちを落ちつけて考えてみると、叔父の死の連絡が遅延したという事実よりも、過去の出来事に対して自分が上乗せしてきた感情による、ということが分かりました。自分が長い年月をかけて上塗りしてきた感情が如何に屈折したものであるか、再認識させられた思いです。
だから、私は今現在起きている震災後の経過を気をつけて過ごさなければならない、と思っています。死別や悲しい事実に必要以上の感情を植えつけないよう、気をつけなければなりません。3月11日が一生忘れられない日になるのは間違いないけど、トラウマにしてはいけない。TVで壊滅した被災地の映像が流れると今でも心が泣くけれど、必要以上に悲しみを染み込ませてはいけない。兄の死と向き合って気づいたことを今に適用させようと努力しています。
もう一つ、現在進行形で気付いたことを書いておきます。
瞑想が自己流でいいのか分からなくて辿りついたこの本 ↓ で気付いたこと。
本の中身は仏教の視点によるものですが、はっとさせられることが多かった。脳は刺激を求めたがるものだということ。悲しい・辛い気持ちによる強い刺激が大好き。私の脳は間違いなく刺激ジャンキー。こいつをなんとか更生させなければと思っています。
また、事実はあくまで事実であって、そのことに対する感情は自分が決めているのだ、ということも心に留めたいと思っています。客観的に事実を見て、淡々と受け流す、という、私が最も苦手とすることができるように、努力したいと思っています。
色々と本を紹介したついでに…。
高田純次サンの本も、前を向く気持ちになれたと思います。実は結構苦労をされていて、お母さん思いの人でした。「止まない雨はないよ」という言葉が胸に残っています。文体はひょうひょうとしていて大上段ではなく、おかしくて思わずふいてしまうところもあり(文字も大きく薄いので)、1日もあれば読んでしまう感じでした。勇気もらえたと思うし、こんな人が身近にいたらなーって思いました(^^;。
最後に亡くなった叔父の思い出を残しておきます。
今年の元旦の朝9時頃、叔父から電話がありました。「お姉ちゃん(私の母)のところに新年のあいさつで電話をしたら、○ちゃん(私)が赤ちゃんできなくて元気なくしてる、って聞いたもんだから」と言って、年賀状に書いておいたうちの電話番号を見てかけてくれたのでした。「○ちゃんにはマリアさんがついてるからサ。大丈夫だから、心配しないで」と励ましてくれた。声が元気そうだから安心した、と言って、最後に「年賀状、おおきにね」、と電話を切った。私は「相変わらず突拍子もない人だな~」とだけしか思わなかった。心配してくれてありがとう、って言えなかった。叔父との最後の会話だったのに。
事情はよくわからないけど、叔父はずっと独身だった。新しい家族が欲しい、と思う私の気持ちを応援してくれていたんだと思う。(叔父とのことをちょっとだけ書いた過去記事があったのでリンクしておきます→ 「リセットと精子凍結と敬老の日」:2009年9月 記事の最後の方に書いてます…)
浮かんでくるのは叔父の笑顔だけです。いつもニコニコ(というか、ニカニカ)笑っている人だった。ご遺体が余りに多くて、葬儀ができるのは6月以降、と言われていたのに、寺の都合で急に決まった葬儀に私は行けなかった。でも、葬儀のあった日、宮古は快晴だった、と聞いて、きっと叔父は天国に行ったことだろう、と思っています。叔父の死と、破壊された町々から、自分を新たにしていこうと思っていますし、三陸の町も新たになって復興していくことを信じています。
長らく不妊治療をお休みしていましたが、花粉の飛散がおさまった頃(多分5月中ごろ)に再開したいと思っています。凍結保存している卵をお迎えできるくらいに気持ちの整理がついてきて、体調を整える準備ができる余裕も生まれ、悪い結果になった時の気持ちの持ちようについても準備ができそうだと思っているからです。
このお休み期間に兄のことや自分のことを見つめて、兄の死と結びつかない、純粋に幸せだと思える自分の家族が欲しい、と思うようになっていました。自分の実家が不幸だとは決して思わないけど、兄のことによる悲しい記憶が消える日はありません。悲しい記憶と直接結びつかない、心から幸せだと思える自分の家庭を持ってみたいのです。できれば伴侶と自分の間の子という形で。
「家族」には色んな形があるはずだ、と自分に言い聞かせてきました。夫婦二人だって家族だし、ペットも家族、ご縁があれば養子を迎え入れて家族、という形もある。でも、出来ることなら夫婦の間の子供を授かって家族になりたい。可能性が望める限りは、諦めないでその希望を叶えていきたいと思っています。
お休み期間に得た感情を忘れずに、不妊治療を続けていきたいと思っています。
この手の過去話を記事にするのも最後にしたいなー…。
おもーーーく、ながーーーい、お粗末な文に最後までお付き合いいただいて、ありがとうございました!m(_ _)m。 がんばりますよん!